辻村深月著『傲慢と善良』。2019年3月5日発刊。
本文の一部に『高慢と偏見』が取り上げられており、現代の婚活模様を描いた内容。ですが、基本的には『高慢と偏見』とは全く別の内容です。
非常に面白く、興味深く読ませていただきました。
辻村深月著『傲慢と善良』
本作に関する著者インタビューがありました。また、公式サイトも用意されています。
公式サイト:https://publications.asahi.com/gouman/
Amazon:Amazon 辻村 深月作品リスト
あらすじ
電話を最後に、婚約者の坂庭真実が忽然と姿を消したが、警察は彼女の計画的失踪を疑い、捜査としてとらえてくれない。
彼女が言っていたストーカーはだれか?彼女の生まれ故郷の埼玉に向かい、西澤架は彼女の行方を必死に探す。
結果、図らずも彼女の過去を辿ることになり、彼女のお見合いや婚活模様の姿が漠然と浮かび上がってくる。
善良な女が見せた傲慢さ。傲慢な男が見せた善良さ。
彼女はどこにいるのか?思いがけない真実は?
前半は男目線で現在の婚活事情、後半は女目線で婚活戦線に放り出された女の辛さや苦悩が語られます。
「傲慢」と「善良」の意味
weblio辞書によると、傲慢とは「思い上がって横柄なこと。人を見下して礼を欠くこと。また、そのさま。不遜」。
一方、善良とは「正直で性質のよいこと。実直で素直なこと。また、そのさま」を指します。
登場人物
- 坂庭真実 35歳
- 西澤架 39歳、真実の婚約者、自営業
- 坂庭陽子 真実の母親
- 坂庭正治 真実の父親、市役所勤め
- 岩間希実 真実の姉
- 三井亜優子 アユ、架の元カノ
- 大原 架の友人
- 美奈子 架の友人
- 小野里 仲人
オースティンの『高慢と偏見』が触れられている箇所
「イギリスのジェーン・オースティンという作家の小説なんですが、あれを読むと18世紀末から19世紀に初頭のイギリスの田舎での結婚事情というのがよくわかるんです。恋愛小説の名作と言われていますが、恋愛の先に必ず結びついて考えられているので、私は、”究極の結婚小説”と言ってもいいのではないかと思っています」(p110)
真実のお見合いを斡旋した小野里夫人のセリフ。
「当時は恋愛するのも身分が大きく関係していました。身分の高い男性がプライドを捨てられなかったり、けれど、女性の側にも相手への偏見があったり。それぞれの中にある高慢と偏見のせいで、恋愛や結婚がうまくいかない。英語だと、高慢は、つまりプライドということになりますね」(p110)
これに続けて、現代の結婚がうまくいかない要因として「傲慢と善良」を取り上げています。
「現代の日本は、目に見える差別はもうないですけれど、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎていて、皆さん傲慢です。その一方で善良に生きている人ほど、親の言いつけを守り、誰かに決めてもらうことが多すぎて、”自分がない”ということになってしまう。傲慢さと善良さが、矛盾なく同じ人の中に存在してしまう、不思議な時代なのだと思います」(pp110-111)
つまり、『高慢と偏見』はこの傲慢と善良を打ち出すための布石、という感じでしょうか。
辻村深月著『傲慢と善良』ネタバレありの感想
感想としては普通に面白かったです。
マッチングアプリを使った現代の婚活模様を背景に前半は男の独白、後半は女の独白、という視点の切り替えも鮮やかでぐいぐいと読ませるものがありました。
田舎在住の元婚活女子としては、前半の婚活のくだりはわりあいと鮮やかに瞼の裏に浮かんできました。架という第三者の男視点を通して、よりリアルに冷静にとらえられていたように感じます。
一転して、後半では女のグダグダ思考になり、そこから癒し、そして、再生とか復活への流れになるのでしょうが、このあたりは少ししらけるものがありました。
前半の圧倒的なリアリティ感に比べて、後半は圧倒的な自己陶酔型の憐憫物語になってしまったのが残念。
最も、それがヒロイン真実の性格であり、作者が描きたい世界だったのかもしれませんが。
誰が傲慢で誰が善良だったのか
タイトルにある『傲慢と善良』。
誰が傲慢であり、誰が善良であったのか。
当初は真実を善良へ誘導し、たいして架を傲慢に誘導している作者の意図が強く感じられました。
39歳のそこそこイケメンで彼女を切らした時期がほとんどない、小金持ちの架が35歳の冴えない、おとなしく、いい子だけの真実を選んだ、と。
傲慢な架が善良な真実を選んだ、と。
しかし、忽然と姿を消した真実を探す中で、否応もなしに真実の過去に触れることになる架。
その中で架は思いがけずに真実の傲慢さに触れていくことになります。2度のお見合いを通して真実がお見合い相手に見せた傲慢さ。
「わたしはこんな男と付き合う女じゃない」
そして、真実は一大決心を。両親にとっていい子で善良だった真実は30を超えてから、姉の助家を借りて埼玉を出て東京で一人暮らしを開始します。
そこで婚活を通して架に出会い、結婚へつなげるために真実は一世一代の大芝居を打ちます。
「架くん、わたしはストーカーに狙われている」
と。架は真実の言葉を疑わず、受け止め、結果として最終的に真実にプロポーズをします。「きちんと結婚して君を守るよ」と。それは架の傲慢さであり、そして、善良さでもあったのでしょう。
人は誰しも傲慢さと善良さの二面性を兼ね備えているのでしょう。
真実ちゃんの婚活が在庫処分のセールワゴンの中だからじゃない?って言ったんです。掘り出し物が出てくることもあるかもしれないけれど、そんなとこじゃなくて、新しい、ちゃんとした値段で買えるものの棚に行けば欲しいものはきっとあるんだし、そっちに行きなよって(p212)
「70%」に価値はあるのか?ないのか?点数化される辛さ
美奈子の理屈による「真実ちゃんと結婚したい70%は相手に70点の女と言っていることなんだよ」ということになるそう。
しかし、この70点、そんなに悪い数字でしょうか。
個人的には非常にいい数値だと感じました。しかし、美奈子にとっては違うようです。
それはそのまま、架が真実ちゃんにつけた点数そのものだよ。架にとって、あの子は70点の彼女だって、そう言ったのと同じだよ(p75)
続けて美奈子は元カノのあゆちゃんだったら、100点とか120点とかつけたよね、と意地悪く指摘します。
このくだりを読んで「ああ、これが結婚相手と恋愛相手の違いなのかな」と感じました。
多分だけれど100点や120点の点数をつけたあゆちゃんと結婚したら、架はすぐに飽きた、と思います。だって後はもうマイナスしかないわけですよね?
一方、70点の真実はマイナスになる可能性もあるけれど、プラスになる可能性もある、と。いい子の真実とは燃えるような恋ではないぶん、失望することも少なく、穏やかに生活ができるのではないか、と。
実際のところ、架は真実のそういうきちんとしたところに惹かれたわけですよね。
しかし、結婚を約束した彼氏が自分に「70点」という点数をつけていた衝撃は理解できます。そして、わたしにとって架は何点なんだろう?と。
この終わりはハッピーエンドなのか?
真実は姿を消します。
ストーカーの嘘をついていたことが架の友達にばれていたこと、自分が点数化されていたこと、自分は架に向き合っていたのだろうか、ということ。
真実は衝動的にその現実からキレイに逃げ出します。いっそ見事なほどに。
そして、真実は家族や知り合いから完全に隔絶された被災地でボランティア活動をしながらひっそりと生活をする中、改めて自分を見つめなおします。
「わたしは何を選択してきたのだろう。わたしが本当に選んだものはあったのだろうか」
と。
最後に架は真実にもう一度プロポーズをして、二人は結婚するのですが、これは架が自営業だからだよね、と思いました。
会社勤めのサラリーマンや役所勤めの公務員だったりしたら、こういう婚約者との仲直りはなかなかできなかったのではないでしょうか?
そういう意味では真実の衝動性を受け止めることができる男をきちんと選んだという感じでしょうか。
しかし、この終わりはハッピーエンドなのでしょうか?
わたしにはそうとは思えませんでした。
ジェイン・オースティンの作品の最後はきっちりとハッピーエンドに終わりますが、21世紀に描かれた婚活模様の終わりにはすっきり感が薄く、どことなくビターな味わいがする終わりでした。
ヒロイン、真実に共感を抱き、そして、抱けない辛さ
この小説はほろ苦く、ビターな感じ。
それを感じさせたのは痛々しいヒロイン、真実。
真実はある意味でわたしに近いところがあります。
地方の田舎済み、地元のお嬢様高を卒業、お見合い話、親の圧力、弟と妹が先に結婚したことによるプレッシャー…
一方でわたしは正社員として働く女でしたので、真実の仕事に対する姿勢や考えは受け付けませんでした。
親近感を抱く一方で親近感を抱けない辛さ。何よりもわたしは真実とは友達にはなれない、と感じました。それを言うなら、この物語に登場するどの女ともわたしは友達になれないでしょう。
苛立ちを感じさせる女たち。
辻村深月さんはそういう女を実に鮮やかに描き出しています。
「嫌な女だ…!」とわたしにかっと怒りや悲しみ、失望感を感じさせる女をあぶりだしており、それはオースティンが描いた物語よりもリアルな存在でした。
元婚活女子が思うには…妥協は必要だ、しかし、妥協だけでもダメだ
この物語で真実は架と出会いまで処女だった、という設定。その時、真実は33歳。
それが良いか悪いかは個人の価値観によって異なるでしょう。個人的には「33歳、処女、貞操意識が高いのね!」と思う反面、「今の時代に処女の価値を大事に守る意味って何だろう?」と思うぐらいで、特に何とも思いません。
周りを見ていても意外とそういう女は多い印象。そして、彼女たちは総じて妥協できないことをひしひしと感じさせられます。
わたしからするとなぜ、そこにこだわるのだろう?なぜ、そこに引っ掛かりを覚えるのだろう?と思うこともしばしば。恋愛と婚活が一緒になり、妥協ということが一切できない印象でした。70%では満足できない、ということでしょうか。
真実のように悟りを開いて結婚する子は少なく、わたしの友人は独身は独身のまま、40代半ばにきました。
この年齢になるともう妥協とか以前になってくるかもしれません。何よりも仕事を持ち、自立してしまっている彼女たちは、もはや誰かと一緒の生活を描けないのだろう、と。その悟りは悟りとしてありなのではないでしょうか。
真実のように人知れず「一人では生きていけないのよ」と呟いている可能性はあるかもしれませんが、結婚をしても一人になる可能性は大いにあり得ます。
そして、何よりも結婚生活はバラ色なことばかりじゃない、という現実。